◆The Last Feast House◇

はせを。

loss◆雪◆
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アラゴルンの通称、strider。 瀬田貞二さんは「馳夫」と訳されました。 これにはいろいろな説がありますが、俳句をしていらした瀬田さんが、 ・・・日々旅にして旅を棲処とす の俳人、芭蕉をヒントにした、という話もあります。 芭蕉は今の伊賀町あたりの出身で、江戸に出てきたときは血気さかんな若者でした。 江戸でさまざまな経験をして・・・ 九死に一生のめにあいました。 それは江戸を焼き尽くす大火です。 焼け出された芭蕉がたよったのは、深川の魚問屋さんである弟子でした。 隅田川のほとりにあった小屋に移った芭蕉は、なにかをふっきったのでしょう。 それまでは宗匠(俳句の先生)として余裕のある暮らしをしていたのに、深川の小屋住まいをはじめて川向こう=江戸へ戻りませんでした。 その小屋のまわりには、珍しい芭蕉の木が植えられていて近所の人は 「あの芭蕉の木がはえてる小屋に隠遁してるヘンな人」 という認識で、芭蕉の小屋の人、と呼んだのでしょう。 芭蕉はそれまで「桃青」という俳号でした。 自分の小屋を「芭蕉庵」とよび、まわりの人が「芭蕉(の小屋の)さん」と呼ぶのを聞いて、みずから「芭蕉」と名乗り始めたのでした。 それが30代後半のことです。 以後、手紙やもとめられて書いた短冊には はせを と署名するようになりました。 芭蕉  =  ばしょう  =  の 旧仮名遣 です。 50代なかばで亡くなる芭蕉が、芭蕉として生きたのは、ほんの十数年のことなのです。 芭蕉研究は、それこそ膨大な研究者の方々が論文をものしていらっしゃいますが、 ほんとうのことは、誰にもわかりません。 芭蕉がなぜ旅という非日常において、俳句を芸事から文学に昇格させようとしたのか。 俳句(当時は俳諧といいました。俳句、という言葉は、正岡子規が明治に提唱したのです)が、和歌(短歌や連歌)と同じレベルの詩歌として、認められるのか。 その芭蕉の魅力が今日でも人々をひきつけてやまないのだと思います。 そして、瀬田さんのなかに、この「はせを」を「馳夫」とし、旅から旅へ歩く人、どんな職業か、何のために旅をするのかわからない人、そんなイメージの同一があったのかもしれません。 芭蕉を魅力ある日本語の詩人としていた、瀬田さんの日本語への思いが、「馳夫」という翻訳を作り出したとしたら、とてもうれしいことです。 さて、芭蕉は胃腸が弱い体質でした。 そのくせ消化の悪いものが大好きで、お酒も好き。 特に好きなのが「きのこ」でした。 これだけで、芭蕉と『指輪物語』がつながりますよね?(笑)
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